東京駅
リアルの感覚はやはりよいものです
先日、3年ぶりに友だちと会食しました。
もうずいぶん、長い付き合いです。
平日の昼間、ランチして、喫茶して、いろいろ話をしました。
お互いいわゆる勤め人ではないので、日程の融通がききます。
混んだ時間を避けて、ゆっくりと、昼間から飲んで、とかができます。
(その日は飲んでいませんが)
今はオンラインので打ち合わせも、当たり前のように行っています。
ですが、実際に会って話すというのは、その場を共有するという体験があります。
今まではあまり気にしていませんでしたが、実際に会うということは画面(2次元)で見ているわけではなく、リアルな3Dです。
見え方はまるで違います。
さらに嗅覚や触覚(さわるではない、空気感覚的なものもです)も得られます。
摂りすぎない、のこさない
食事の内容も最近は落ち着いてきています。
昔のようにガッツリ食べることはなく、食べられる分だけ頼み、残さず食べます。
以前読んだ本の中で、食べるものと量について、とてもわかりやすい例えがありました。
・赤ちゃんの頃は、自分で食料を獲れないので、親からもらう
・青年の頃は体力もあるので、動き回って肉などを獲ってガッツリ食べる
・壮年になると知恵がつくので、育てたり熟した果実など、穫って食べる
体力と行動範囲に応じた内容と分量を摂ればよい、というものです。
なかなか理にかなっているな、と思ったものです。
そうやって考えると今は飽食・過食になりがち。
「この食物、自分で獲得、収穫できるかな?」
そんな視点も持つといいのかもしれません。
のこさない
さて、友だちとのメインの会話出でたのは、のこさない(遺さない)。
自分の親の世代で見てみると、「子供にできるだけ遺してあげたい」という方は少なくないようです。
自分たちは質素な暮らしをして、無駄遣いをしない。
その気持ちはうれしいものです。
その反面、仕事の関係では相続(税)に悩む方が多いのも事実。
また、子どもたちに平等に遺してあげたいという気持ちが、かえって争いを生んでいる現実も。
友だちとの会話では、自分で稼いだお金は自分が楽しむためにお金を使う。
それでももし残るなら、分けやすい形で遺す。
親が子どもに遺すものは、お金などのモノではなく、親の屍を越えて自力で生き抜く力。
これ以外にはないよね、そんな話になりました。
あとは何がどこにある、なにをどうする、といった後片付けに困らないような準備をする。
これもやっておかなきゃねー。
そんな話をしながら、またの再会を約束して、楽しいひと時は過ぎていきました。
ーーー